1154生命は光りそのもので、人間は神の子だった!

 

 伝道練成会に参加した動機は二つありまして、
一つは神癒祈願に出させて頂いていた甥っ子の大学合格のお礼と、
もう一つは神の子の自覚を深めるために来ました。

 研修生を卒業する時に絶対伝道練成だけは参加しないと思っていたのですが、
今年に入り繰り返し読んでいる藤原敏之先生が書かれた本の中に、
「真理を学ぶために仕事を終えた後に大雪の中を二時間、三時間と歩いて
夜の九時から十二時過ぎまで話を聴いてまた帰っていった」という昔の人達の話があり、
その真理を学ぶという姿勢を見習いたいと思ったからです。

 長田先生の講話の中で 「自分の中に神の子の自覚がないと相手を拝めない」
という話しがありました。

 残念ながら私は今年の新年祭の夜まで神の子の自覚を持つことが出来ませんでした。
研修生を卒業してからのこの三年間、研修生と同じように祈る生活を続けていたのですが、
それは「我の塊」の祈りで、そのような祈りは良くないと思い、しばらくの間、祈るのをやめ、
行をせず、生長の家からも離れようと思い、青年会や聖使命からも籍を抜き、
部屋の全ての聖典をダンボールに積めて実家に送る準備をし、
宇治に来るのを最後にしようと決意して、新年祭奉仕員として準備献労に参加しました。

 しかし、宇治最後の夜に研修生行事である先祖供養に参加させて頂いた時に
自分が神の子であるという気付きの体験をさせて頂きました。


 先祖供養が始まるまで大拝殿の一番後ろで神想観をして待っていたところ、
先導者の声が聞こえ、目を開けたところ、理由は分りませんが、
研修生一人一人が「光り」に思え、「人間は光りなのだ」「生命は光りそのもので、
人間は神の子なんだ」
と実感しました。

 私は研修期間中、他の研修生があまりに純粋なので、
自分がその場にいてはいけないような気がいつもしていました。

 しかしこの瞬間 「自分もまた光りであり、神の子だったんだ」 と、
あの時あの場所にいて良かったんだと思え、その事がありがたく、嬉しくもあり、
泣きながら先祖供養をしていました。

 最後の笑いでは、心の底からその喜びを笑いで表現することが出来、
宇治最後の夜を心穏やかに眠りに付くことが出来ました。
そして帰り際に引いたおみくじの書初めの言葉は、
 「あなたは神から祝福されたものである」 「真実の心」でした。

 自宅に帰り着き、聖経を聖典が入ったダンボールに入れようとした時に
目に入って来たのが藤原先生の『あなたは必ず救われる』で、
その中に 「現象と実相をしっかり分けないといけない」 「蒔かぬ種は生えぬ」
といういつも研修生時代に繰り返し聴いていた言葉がありました。

 私はこの三年間祈って行ずることにより起こった問題や
相手を良くしようとしていたことに気付かされました。

 間違って蒔いた種で起こってしまった現象、つまり心の迷いの影であるから
本来ないものなので気にしなければいいのに掴んで放せなくなった自分を反省しました。

そして、気持ちを切替えて 「自分は神の子である」 という新しい種を蒔こうと決意し、
再度行じ始め、この伝道の二日間を過ごしていました。

 長田講師」の講話の中で 「時間の経過をみていかないといけない」 というお言葉を頂き、
大安心のもとに行じていけばいいんだと確信しました。

 また、山口講師の講話でありました、「四無量心」の「慈」「悲」「喜」「捨」の「捨」のところまで
三年かかったように思います。

 これからは「実相直視」出来るように更に神の子としての本当の自分に気付き、
自分を信じて喜んで喜んで行じていきたいと思います。








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