『 宇治だより 』  宇治を愛する人  

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『宇治だより』 第36  平成2年5月1日 

  魂のやすらぎと導きを感じて
   埼玉教区教化部長(当時) 深田 保


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魂のふるさと宇治--何とも快い響きである。
此の地に宝蔵神社が建立されてから三十年の年月が流れた。

昭和三十五年八月の落慶大祭から、私は殆ど毎年、
この宇治の地に来ているが、今はしっとりと落着いた雰囲気の中に、
私達信徒のお祀りする「みたま」様が、
生長の家大神様を中心とする本尊曼陀羅に導かれ護られて、
安らかなときを送っておられると思うと、
限りないなつかしさと安堵感をおぼえるが、
当時は、毎年が変化の連続であった。

信徒の奉納する燈龍が年毎に増え、
玉垣がめぐらされ、手水舎が出来、参道が整備され、
宝蔵神社及大拝殿は年毎に荘重さを増してゆくのに私は感動した。
その感動の中で、私は次の様な体験を通して、
「みたま」の喜びとお導きを感じたのである。

一つは、年代は失念したが、
その当時東京都相愛会連合会の副会長を務めておられた、
伊嶋四耕講師が、招霊祭員として奉仕されたときの事であった。
伊嶋講師は、自宅を出発するとき、
近所の信徒の方から霊牌を出すのがおくれたので是非届けてほしいと頼まれ、
宇治に到着したとき直ちに受付に霊牌を差し出した。

その翌日が招霊祭である。
伊嶋講師は導かれるままに所定の席について、
招霊が始まり、しばらくすると愕然とした。
なんと前日自分が受付にお願いした霊牌が、
自分の手許にあるではないか。
伊嶋講師はこの時、“霊牌は生きている”と感じた。

第一回の盂蘭盆供養大祭は、昭和三十一年で、
その時の霊牌奉安は二五一、四一九柱と記録にあるから、
伊嶋講師はがその体験をされたときの霊牌奉安は
百萬柱を超えていたと思われる。その多数の中から、
しかも自分が前日に受付に出したばかりの霊牌が自分の手許にある。

伊藤講師は、これは私に招霊してほしいと願っているに違いないと思い、
心を込めて招霊した。 

その二つ目は、昭和四十一年当時
東京都相愛会連合会長だった橋村正治講師は、
胃病の治療で衰弱した身体であったが、 宇治からの神官依頼の要請に応え、
歩くのがやっとという状態で大祭に奉仕する決意をしたのである。
駅の階段を昇る時は、私と青年会の人が肩を貸した。

そして招霊祭の当日、橋村会長は、霊牌が三千柱位入る
奉安篋を拝殿から霊殿に奉送する役を受持たれた。
歩くのがやっとという自分に果たして務まるか危惧はあった。
しかし、神様の御仕事で倒れるなら本望だとの決意は、
身体の衰弱を見事に超越した。

五時間近くになる奉仕の間、身体の不調もなく、重い霊牌の箱も、
“みたま”様を奉安するという心で重さを感じなかったという。
そして健康に自信を得た橋村講師は、帰路は、
青年の力を借りることなく元気で帰宅したのである。

宇治にゆかりのある思い出は、限りなく私の心をとらえている。

 

 

 

 


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