『 宇治だより 』  宇治を愛する人  

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『宇治だより』 第16号  昭和59年6月1日 

   神官奉仕は至上の喜び  

宇治別格本山 智泉会会長 (当時)  山森忠雄
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 入信させていただいて一番有難いのは “神の子人間” を自覚させていただいた
ことでありますが、それと同様に、ご先祖様が霊宮聖使命菩薩の称号を授けられ、
菩薩となってお祀りされていることです。

 宝蔵神社の大拝殿に額づくとき、なんともいえない心の安らぎを
得るのでありますが、あれはご先祖さまが、宇治のあの美しい静寂な中に
お祀りされて、ニギミタマとして鎮まりますからであり、私の心が一層安らかに
なるのであると堅信いたします。

 私の一番嬉しいのは、宝蔵神社の月次祭や盂蘭盆供養大祭に、神官として
奉仕させていただけることです。

 生長の家大神様、ご先祖さまの御徳をいただいて、選ばれて奉仕出来ること、
私にとりましてこの上ない喜びです。

 今から八年前、私が初めて宇治の月次祭に神官として奉仕するために、
朝の八時ごろ、寒風が肌をさし枯葉の舞う宇治川堤の霜柱を踏んだとき、
不思議なことがおきました。

 それまで長年、魚の目が冬になると痛く、歩行に支障をきたし、毎日の散歩も
意のままにならなかったのが、小石塊の多い砂利道を歩いているのに痛まなくなり、
無事に神官の大役を勤めることが出来ました。そして、以来いつの間にか
魚の目は消えてなくなってしまいました。

 また、年齢相応に肉体的に老化現象の顕れだした私には、神経痛で
膝関節が痛み、正座が苦痛な時も度々あり、今日の神官の大役が勤まるかと
心配することも一度や二度のことではありませんでした。
 しかし、神殿で聖経 『甘露の法雨』 を読誦しているうちに悦びがこみ上げ、
目頭が熱くなって痛みなどまったく感じなくなってしまうのです。

 再三こうした経験を味わうにつけ、宝蔵神社のご先祖さまのご守護をひしひしと
感じられます。

 “吾が業は吾が為すにあらず天地を貫きて生くる祖神の権能” の招神歌の
一節が実感として思いうかんでまいります。



 

 

 

 


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