2062「神の子として」

研修生体験感想文

昨年10月、新卒で入社し3年半勤めた会社を辞めました。
私は生長の家を信仰する家庭に育ち、
環境は自分の心の影であるという法則を知ってはいたものの、
自分ではどうにも出来ず人生の悪循環を断ち切るべく、
11月に一般練成会に参加しました。

講師が「礼拝は自分の命を拝んでいるんですよ」と仰っていて、
その日の神想観で礼拝した時にはっとしました。
私は自分の存在を認められなくて、全てが間違っているように感じていました。
その想い故に、全身が重くて、頭と体がちぐはぐで、
いつもどこかが噛み合わない日々を送っていました。
人生をやめたいと思った日もありました。

そんな何も出来ないと思っていた私が
自分の生命を祝福する事が出来るという事実が嬉しくて有難くて、
温かい涙がこぼれました。
この練成で私は、生まれて初めて自分が神の子である事を思い出しました。  

研修生活を振り返ると私はずっと神様を呼んでいました。
神様は私が蓋をしていた記憶、出来事、感情を誤魔化す事無く、
人や状況を通して私に見せてくれました。
その都度目の前に現れてくださった全てを通して、
結局は自分自身を拝んでいるのだと気付きました。

その過程では存分に泣き、笑い、怒り、喜び、鏡の前で笑って、
神の子と唱え続けて、分からなくても数分でも神想観をしました。
自分を認めようとしました。  

研修生も終わりに近付いたある日の輪読会で榎本講師が
「自分の事を好きになったら、全ての人に愛される」と仰っていて、
それを聞いた瞬間「私は多くの人に愛されているなあ」と温かい想いに気付きました。

それと同時に頭をよぎったのは「自分を認めていないのに愛されるのはなぜだろう」
という事です。しかし「自分を認めていない」という部分に違和感を持ちました。
違和感の正体は「本当の自分は既に自分の全てを認めていた」事でした。
びっくりしました。上辺の心がどんな状態であっても、
私は自分を認めていたその事実を知らなかっただけでした。

ずっと前から静かに確かに在り続けていた本物を実感で観つめた喜びは絶対に揺るがなくて、
誰とも比べられなくて尊くて、私の全てだと思いました。 

更に嬉しかった事は、この実感を忘れてもいいと思えた事です。
忘れても無くならないから忘れていいし、研修中そうだったように、
思い出すべき時に神様はあらゆる手段で神の子を思い出させてくれるからです。  

こんなにのびのびと研修をさせていただけたのは、
講師の方々、研修仲間、本山員の方々、練成員さん、
そして宇治へ送り出してくれた家族とご先祖様のお陰です。
様々な方面から支えていただいて、生かされている事が嬉しくて、
一人では生きていけない事がこんなにも素敵な事だったのかと思うようになりました。  

今こうして宇治に残らせていただける事が嬉しくて仕方ないです。
これからも全て「これでよかった」と認めて、
神の子として次はもらった以上の愛を与えさせていただけるよう、
感謝を深めてまいります。


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